生まれ故郷
私は明治四十年八月生まれで、今年で百歳になります。
故郷は、長野県下伊那郡です。平谷は長野県の南の端にある山間の村で、西は岐阜県に接しています。
村の中央を平谷川が貫いており、両岸は深い山に囲まれています。私の生家はそうした山の一つであるのふもと、という集落にありました。向町では坂道に沿って家が連なっていましたが、坂のいちばん下の県道端にあるのが私の家で、屋号を坂元屋といいました。
平谷はたいへんに寒い土地で、柿は実がならず、梅は花が咲くだけ、竹の子も生えません。私が幼いころは、ジャガイモやウリ、キビ、ソバなどを育てていたほか、ゼンマイや「タケノコ」と呼ばれる菜っ葉のような山菜を採って食べていました。
そのような厳しい土地に人が住んでいたのは、馬に荷を載せて運ぶ馬追いの往来があったからです。昔は広い道も自動車もなかったので、荷物はすべて馬で運びました。平谷は伊那谷に荷を運ぶ馬追いの宿場で、大正の初めころで家は三百軒ほどあったと思います。
私は、この平谷村で百姓をしていたと志づの長女として生まれました。
明治の世
私が生まれた年は明治四十年ですが、役所に出生届を出して籍に入ったのは四十一年三月のことでした。
生まれてから半年以上も出生届を出していなかったことになりますが、当時は幼くして命を落とす赤ん坊が多く、丈夫に育つ見通しが立つまで届けを出さないことも珍しくなかったのです。
また、当時はいまほど手続きがうるさくいわれない時代でもありました。私の知合いには、生まれるより七年も早く籍に入っている人がいます。その人は、姉の籍をそのままもらったのだそうです。
私は明治時代を六年ほど生きたことになります。その頃のことを思い返してみると、三、四歳のときは父が好きで、いつも後追いをしては泣いていました。そして、父のそばにいれば機嫌がよかったのです。
家が百姓だったので、山や田畑に仕事がたくさんありました。父は仕事をすませて夕方家に帰ると、晩酌を飲み食事をして、組合の寄合いがあるとか、口利きを頼まれたとか言ってまた出ていきます。
私は淋しいので連れていってと泣きますと、父は叱りもせずに私のほうへ背中を向けてくれました。私が喜んで父の肩へ掴まると、背負って連れていってくれました。
四、五歳くらいのころに、祖父が近所のお年寄りたちと善光寺へお参りに行き、お土産に手鞠を買ってきてくれました。
私は嬉しくて、近所のお連れといっしょに手鞠歌を歌いながら鞠つきをして遊びました。そのとき歌ったのは「オセン」という手鞠歌でした。
オセンやオセンやオセンや
オセンのさしてるかんざしは
ひろたかもろたか美しや
これだけを憶えていて、繰り返し歌いました。
また、子どもたちがよく歌っていた流行り歌に、「牛若丸の歌」というものがありました。それは、
父は尾張の露と消え
母は平家にとらわれて
おのれひとりは鞍馬山
というところだけを憶えて繰り返し歌いました。この歌には続きがあったので歌ってみたいと思ったものですが、誰かに教えてもらったのかどうか、はっきりと憶えていません。
五、六歳になると、お友だちと噂話をするようになりました。
そのころの有名な話に、伊勢の古市の百人切りがあって、貢という侍が暴れて百人も切ったのだそうです。明治になって侍はいなくなったので、これは江戸末期の話かもしれません。
噂といっても何十年も前のことだったのですが、当時はそんな話をおもしろがってしたものです。
しばらくして、明治天皇様が重い病気になられたとのことで、早くご病気が治るように村中の人が集って村社へお参りすることになりました。
昼間より夜の丑三つ時にお参りしたほうがご利益があるという話になり、私も父に連れられて暗い夜道をお参りしてきました。
しかし、天皇様は村中の人がお祈りした甲斐もなく、お亡くなりになってしまいました。明治四十五年のことでした。
思い返せば、幼いころは両親も若かったし、私も丈夫で苦労を知らずに遊ぶことができて、明治の世は本当に幸せだったと懐かしく思い出しています。
狂歌
鳥吉さ 前に鳥居はなけれども
うしろにかみが おわします
うぐいすの はつなき聞いて胸騒ぎ
いつもその次 飯米がない
江戸の末期から明治の初め頃、村の人たちはこんな歌を作って楽しんでいたと祖父が話してくれたことがあります。
水の力
明治が終ると、年号は大正になりました。どことなく平和な空気に包まれ、希望をもって皆で暮したいと思えるような時代でした。
「今上天皇陛下はお体が弱いから、大正も十年とは続かないだろう」などと心配する人もいましたが、実際には十五年続きました。天皇様ご自身は病弱であったと聞いていますが、お世継ぎとして立派な皇太子様がお生まれになったのはありがたいことだったと思います。
私の家にも、大正二年に弟が生まれて賑やかになりました。母が弟の世話や家内の食事の用意などで忙しくなったので、私も子守りや家の掃除などを手伝うようになりました。
私が七歳のころの出来事で、いまでも憶えていることがあります。
あるとき、弟が泣いていました。すると母は、弟の子守りをするか、川へ洗濯に行くかどちらかするようにと言いました。そこで私は、川へ洗濯に行きました。
その日の川は、雨が降ったあとで増水していました。川端に行ってみると、いつも洗濯をしている場所は水かさが増えたために洗えなくなっていました。そこで、傍にあった岩を足掛かりにして洗濯をすることにしました。
ところが、私は足を滑らせて川のなかに落ちてしまったのです。
強い流れのため、何かに掴まることもできずに押し流されていきました。流されるままに浮いたり沈んだりして、まるでこの世のことではないような、夢のなかのような気持ちでした。
そのとき、近所の人が私をみつけ、急いで川のなかに入って助けてくれました。増水した川は大人でも危険ですから、よく助けてくれたものだと思います。
父は私が川に流されたと聞くとすぐに駆けつけてきて、その人にお礼を言ってくれました。しかし、私は小さかったので、きちんとお礼を言えたのかどうかはっきりしません。
あのとき川に流されたまま命を落としていたら、いまの私はありませんでした。その話を孫の一人にしたところ、「そのとき助けてもらえなかったらぼくも生まれなかったんだね」と言われ、あらためてあの人には感謝してもし足りないという気持ちになりました。
助けてくれた人にもう一度会い、きちんとお礼を言えたらどんなによいだろうと思うことがいまでもあります。
小学校
大正三年の四月には、私も小学校へ入学することになりました。
よそ行きの着物に買ってもらったばかりの海老茶の袴を履き、髪にはリボンを付け、父に連れられて入学式に行きました。入学式では校長先生が読み上げる教育勅語や講話をお聞きしました。
私といっしょに入学した同級生は二十三人で、男子が六人、女子が十七人という女子の多い学年でした。
それから一年間は、先生方にさまざまな授業をしていただき、一生懸命に勉強しました。
その年の修業式では、私は総代として修業証書を頂きに呼ばれ、校長先生の前に出ていきました。そして証書を受け取り、帰りに組の皆に渡してあげました。総代に選んでもらえるなんて想像もしていなかったことでした。
しかし、それから幾日か経つと、同級生の母親の一人が、「あんなに器量が悪くて背の低い子より、うちの子のほうがどんなによいか分からない」などと私の陰口を叩いているという噂を耳にしました。
それを聞いて家に帰り、鏡で自分の顔を見ました。私はほかの子より器量がよくないかもしれない。どうしたらいいんだろう。母ももうすこしきれいな娘に生んでくれたらよかったのに……。
でも、母もきれいな娘を生みたいと思っていただろうに、私が生まれてきてしまったのだ。自然の成り行きで仕方のないことだから、母を恨むのはよそうと思いました。五体満足で丈夫な子に生んでくれたことに感謝しなければなりません。
当時学校では、祭日のたびに教育勅語を開き、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」と教えられました。
当時九歳だった私は、その言葉どおりにきちんと生きるにはどうしたらよいのかと考えました。
「夫婦相和シ」といっても子どもの私にはどうすればよいのか分からない。「朋友相信シ」といっても相手が心を開いてくれないこともある。でも、気心の知れた両親への孝行ならしっかりできる。
母は十歳のときに自分の母親を失い、それからは子守り奉公に出され、いろいろと辛い目に遭ったと聞いていますし、父も戦争に行ってたいへんな苦労をしました。自分の器量のことで悩む暇があったら、苦労した両親に尽くそうと思いました。
二年生の修業式では、別の子が総代になりました。私は三年生のときにもう一度総代になりましたが、それ以後は指名されることはありませんでした。
試験の成績が私よりもよくない子が総代になることもあったので、先生はあの陰口を聞いたのだろうかと考えてしまうことがありました。
誰が総代になったかということは、いまとなっては大きな問題ではないかもしれません。でも、そんなことをいまでもはっきりと憶えているのは、子どもなりに理不尽さを感じていたからなのでしょう。
ただ、成績優秀な児童に贈られる賞は六年生まで毎年いただいていたので、そうしたところを評価してくださった先生方にはいまでも感謝しています。
よく歌った唱歌
学校ではいろいろなことを勉強しましたが、教科書にあった唱歌の一つをいまでもよく憶えています。
北は樺太千島より
南台湾澎湖島
朝鮮八道おしなべて
我が大君のおおみいつ
あまねく光り大君の
同胞すべて六千万
あるとき、この歌が作られた背景について、学校の先生が説明してくれました。
日本は日清日露戦争でお金を使ってしまい、そのうえ朝鮮を併合したので、国全体を治めていくために外国に大きな借金をしたそうです。
金額は一人あたり四十八円になるので、国民は倹約して一生懸命働かなければ借金を返せないとのことでした。
そのような状態なので、代用食として麦飯を食べるのは当然でした。また、小さいジャガイモを細かく切って、お米といっしょに焚いて食べたりしました。おやつは、そば粉を熱湯でかき混ぜて黒砂糖を入れ、よく混ぜて食べるとおいしかったものです。ときにはそば餅を作って食べたりもしました。
私の住んでいた平谷は海抜が八百メートルもある寒いところだったので、お米の収穫量が少なく、早くから代用食を食べていました。
大正も半ば頃になると、お蚕様を飼うようになって現金収入の道が開け、しだいに景気がよくなってきました。それで国の借金が返せたのかどうかは分かりませんが、当時は皆が倹約して働いていました。
楽しかったこと
私は昔から読書が好きでした。小学生の頃は本がなかなか手に入らなかったので、学校の本は手当り次第に読んだものです。本を読み始めると眠くならず、外がちらちらと明るくなっていることに気づいてようやく寝なければと思ったことがたびたびありました。
当時、雑誌は『少年世界』『少女世界』などがありましたが、それらも手にすることができれば夢中になって隅から隅まで読んだものです。
読書の習慣は大人になってからもなくならず、折に触れてさまざまな本を読んできました。社会性のある作品で有名な山崎豊子さんは好きな作家の一人です。
そのほかにも、川釣りをしたのは楽しい思い出です。
四年生くらいの頃に、お友達といっしょに近所の平谷川へ魚を釣りに行くことがあったのですが、竿に糸と釣り針を付けて投げ込むと、ザコと呼ばれる小魚を釣り上げることができました。魚が針にかかったときの竿の感触や、釣り上げたときの嬉しさはいまでも鮮やかに思い出すことができます。
当時平谷では、川釣りを生業にしている人が二人ほどいましたが、私も男だったらそれを仕事にしたいと思ったほどです。
また、これは大人になってからの話ですが、私の子どもが学校へ通うようになった頃に機織りを習いました。
そして機織り機を借りて自分で機織りをしたのですが、これは本当におもしろいと思ったものです。糸さえうまく組めばどんな模様でも織り上げられるので、目の前がひらけていくようなおもしろさを感じました。
私は助産婦の道に進んでしまいましたが、もっと早く機織りを習っていたら織り子になってもよかったと思ったほどです。
家の手伝い
私は勉強が楽しかったので学校では一生懸命勉強しましたが、家に帰ればいろんな手伝いをこなしました。なかでも「もや拾い」はよくやった手伝いの一つです。もやというのは家で火を焚くための薪のことです。これは近所の山で拾ったのですが、平谷は三月になっても根雪の残る寒い土地なので、なかなかたいへんな仕事でした。
あるとき、私は母と一緒にもや拾いに行きましたが、あまりの寒さに手がかじかんで、もやを拾うことができませんでした。
母はそんなとき、自分が背負うもやを拾い集めると、私のぶんも拾って背負わせてくれました。
母に私のぶんまで拾ってもらうのは申し訳ないので、寒いときにもやが拾えなくても大丈夫なように、暖かい季節にたくさん拾って溜めておくことにしました。そして四年生くらいになると、毎週日曜日に山へ行き、なるべくたくさんもやを拾うようにしました。
大正七年頃は、夜の灯はまだランプとカンテラでした。ランプのほやは一日灯せば香煙で黒くなるので、毎日夕方になると、どの家もランプの掃除で賑やかでした。
カンテラは祖父が夕なべで藁細工をするときに使いました。その頃は、田畑の仕事をするのに必要な草履や、馬に履かせる靴などを夕なべで作ったものです。
私は祖父に教えてもらい、自分の履く藁草履を作りました。昔は、十日の月の入るまで、二十日の月の上るまで夕なべをするとよいなどといわれていました。
そのようなことをしているうちに六回目の修業式が済み、私は大正八年に小学校を卒業しました。先生は高等科へ進学したらどうかとわざわざ家まで勧めに来てくれましたが、父が家業を手伝うことを望んでいたので、私は学校を六年で終りにして百姓をやることにしました。
家業である百姓をやれば親にも孝行ができるし、自分のためにもなるから一生懸命働こうと思いました。百姓は力仕事なので辛いことも少なくありませんでしたが、辛抱しようと心に決めました。
そばの花
小学校を卒業すると、私は祖父とともに、毎日田畑の手入れをしました。
当時は繭が高い値で売れて景気のよい時代でした。私の家では山畑に桑の木を植え、お蚕様を飼って一家の収入にしていました。
あるとき、私と祖父は桑畑の傍を開墾し、そばの種をまきました。
やがてそばは成長し、白い小さな花を一面に咲かせました。畑にひろがるそばの花の美しさは、いまでも瞼の奥に焼きついています。
そばは花が咲いて実が三粒なれば、あとは刈り取ってかけておくと残りの花も実になります。
そばの刈り時は祖父が教えてくれたことでした。懐かしい懐かしい思い出です。
若き日々
大正十年のことですが、村に電気が通じて電灯がつくという話になりました。電柱を立てる人夫が村に入り、電線が張られると、どの家にも電灯がつき、便利になりました。
電灯があればランプは要らないので、夕方のランプの掃除はおこなわれなくなりました。私には、それがちょっと淋しいような気がしました。
世の中は日進月歩の勢いで変わっていき、丈夫なゴム草履や地下足袋ができたおかげで夜なべをする必要がなくなりました。
この頃、新銘仙という反物ができたので着物に仕立ててみたのですが、普段着と外出着の中間のような着物になりました。そして、そのような反物の登場とともに、着物の着方も変わっていきました。
当時、女子の九割は、学校を六年で卒業して製糸工場へ働きに行きました。
繭の糸取りが盛んな時代でしたから、どの家でもお蚕様を飼いました。繭が高い値段で売れたので、景気もよかったと思います。働き甲斐がありました。
私は小学校を卒業すると朝から晩まで家の仕事をするようになり、四月から十一月まではお百姓、十二から三月まではお裁縫や家事のことをしました。
また、補習科といって、小学校で卒業生を対象とした授業がおこなわれていたので、私もそこに通って二十歳くらいまで裁縫のやり方などを習いました。
その頃は田をおこすには備中、畑を作るには鍬、草を刈るには鎌を使いました。いずれも柄が付いており、それを握って力を入れて田畑を作ると手にマメができたものです。それがつぶれると水が出て、痛い思いをしました。
そんなときは、三色の葉を噛んでマメの痕に付け、布で縛っておくとよいと母に言われていたので、いつも縛る布を持ち歩いていました。
噛んだ葉を付けると早く治り、だんだんとタコになります。そして、そこが固くなるので抵抗力ができて痛くなくなります。そうなると、田畑の仕事で力を入れることも楽にできるようになりました。
百姓で働くと体がしっかりして、すこしくらいのことでは疲れなくなるものでした。
お裁縫は小学校三年生から授業があって、サラシを一尺五寸くらいに切って、それを横に二つ折りにして運針を練習しました。
針受けという指輪を中指にはめて、短い針で縫いました。四年生の頃は一つ身の襦袢の縫い方を学び、それから順々に大人の着物を教えてもらいました。
その頃は誰でも和服でしたから、女の人は着物を作るだけでもたいへんでした。
私の家のように家内が九人もいると、四季折々に着替える着物は何十枚にもなりますから、それを作るのに大忙しでした。しかし、当時はそれが当たり前で、気にする人はいませんでした。
私もお裁縫をがんばって、 十九歳くらいの頃には綿の入った着物を一カ月に三十枚も縫いました。それくらい縫ったので、針受けには三つも穴をあけました。
昔は針受けに穴があくと、お祝いをしたものです。私が針受けに穴をあけたときも、母が小豆のご飯を炊いて神棚に進じてくれました。そんな針受けを宝物として手許に残しておけばよかったのですが、実家に置いたままにしているうちに紛失してしまったのは残念なことです。
夏は畑を耕し、冬は裁縫をして一生懸命に働くうち、養蚕の景気のよさも手伝って、家には五百円ほどの財産ができました。当時の五百円は二階建ての立派な家が建てられるほどの価値がありました。
父は、こうした財産ができたのは私がよく働いてくれたおかげだと褒めてくれました。「ツルヨは俺のところの米櫃だな」などと言ってくれたのは嬉しい思い出です。
その一方で、周りの友達は大方お嫁に行き、残っている人は少なくなりました。その頃は、嫁入りの盛りは十七、八歳といっていましたから、いまとくらべると早婚でした。
私も嫁入り口はあったのですが、力仕事を長くしたためか、夜になると腕が痛くてなかなか治らぬので、この体ではお嫁に行っても務まらないのではないかという気持ちになりました。
その頃、お嫁に行って子供も一人できたのに、仕事がきつくて体を壊し、亡くなってしまった人がいました。私は自分の体を考えて、仕事を変えたほうがよいのではないかと思い悩むようになりました。
身長
十七、八歳くらいのとき、私は日赤の看護婦になってみたいと思いました。
そこで、募集要項を取り寄せてみることにしました。
送られてきた要項を読んでみると、募集条件の項目に、「身長は百五十センチメートル以上」という記載がありました。私の身長は百四十八センチメートルしかないので、日赤の看護婦にはなれないことが分かりました。
いま思えば、身長がわずか二センチメートル低かっただけで、望んでいた道に行けなかったことになります。
身長についてはいろいろと思い悩むことがあっただけに、日赤の看護婦のことはいまでも思い出すほど残念な出来事です。でも、こればかりはいくら悩んでも仕方のないことでした。
りんごの思い出
いまから七十年あまり前、私が二十歳前後のときの話です。
平谷村から出て名古屋で髪結いをしている人に頼まれ、十二月から三月まで下すきの手伝いをしたことがあります。下すきというのは、髪を結う前に、櫛ですいて整える仕事のことです。この仕事は冬の寒い季節でも一日中立ちどうしで、足を暖める隙もありませんでした。
名古屋は夏は暑いそうですが、冬は寒さが厳しいところでした。私はしもやけのできる体質だったのですが、火燵もないようなところだったので、夜も昼も足が寒く、やはりしもやけになってしまいました。
三月の半ば過ぎから固くなっていたしもやけがすこしずつ柔らかくなり、ぐじゃぐじゃした傷になってしまいました。手入れしてもなかなか治りません。
髪の下すきもだいぶ慣れておもしろくなったのに、足のしもやけが治らぬので悲しくなり、涙ぐんで傷の手当てをしていました。すると、ちょうどそこへ八百屋の御用聞きの背の高いお兄さんが来ました。そして、私の足の傷を見て、これは腐ったりんごを付けると治ると言って、一つ持ってきてくれました。
りんごの腐ったところを傷に付けて縛っておき、翌日縛ったところを解いてみると、傷はいくぶん乾いて治りそうな様子です。私は嬉しくなりました。そして毎日一回ずつ腐ったりんごを付け替えるうちに、一週間くらいでおおよそ治ってしまいました。
りんごは腐ってもこんな良薬になるのだと思うと、どんなものにも尊さがあるものだと感謝したい気持ちになりました。
そのとき腐ったりんごを持ってきてくれた八百屋のお兄さんにどんな御礼をしたのか、いまではそれを憶えていません。ただ、そのことを思い出すたびに懐かしいようなありがたいような気持ちになり、、いつも心のなかで御礼を言っています。
名古屋の人は親しみやすく、よい人たちばかりでした。しかし、私は寒さに弱くてしもやけのできる体だったので、冬の厳しいその土地で働き続けることは諦めました。
もう七十年以上も前の話です。
産婆
私が二十歳くらいの頃のことですが、新聞に、産婆になるための指導を受けられる講習会の記事が載っていました。
看護婦は身長が足りなくて諦めざるをえませんでしたが、産婆も看護婦と同じように人を助ける仕事です。私はこの講習会に参加し、一人前の産婆になろうと考えました。
産婆になれば家を出てしまうことになりますが、両親に「私ももう二十歳になるのだから、お嫁に出したと思って暇をもらいたい」と話したところ、気持よく許してくれました。
それから同期の仲間とともに三カ月の講習を受け、それぞれが病院や医院に配属されました。私も飯田にある西澤医院で見習いをすることになりました。
見習い修行を一年半すれば産婆の検定試験を受ける資格ができるので、配属後は見習いやら勉強やらで忙しく暮しました。
三年目には試験にも受かりましたが、すぐに産婆を開業するわけにはいきませんでした。
武者修行の物語などには、三年で免許皆伝を許されて故郷に錦を飾るなどと書いてありますが、私の場合は三年では産婆をやっていく自信をもてませんでした。これでやっていけると自信がつくまでには五年かかったのです。
それからさらに二年間、御礼奉公のつもりもあって西澤医院で働きました。けっきょく開業は医院に入ってから七年目になり、そのときには西澤先生も喜んで開業祝をくれました。
産婆は生命の誕生を介助する重要な仕事です。私はこの仕事に打ち込んでいくにつれ、自分にとって天職だと思うようになりました。お産に立ち合うたびに、人間の体の不思議さに畏敬の念を感じ、自分の職務に身の引き締まる思いがしたものです。
当時、私が開業したのは下伊那でも比較的大きい下條村でした。しかし、各自が自分の土地に家を建てているような閑散としたところで、家屋が並んでいるのは製糸工場のある一カ所だけでした。
私はそんなところでお産に頼まれ、毎日野道を歩いて暮しました。